2022.6.17

創造性ゼミ 2022

【連載】カーボンニュートラルと創造性 ~脱炭素による経済発展を自分の仕事にしてみよう~ (2022創造性ゼミ第4回)

2050年カーボンニュートラル宣言。脱炭素の挑戦をブレーキではなく成長のエネルギーに変えることでこの目標を達成できないか?というのが産業経済社会が抱える最大の課題です。

この課題に対して経済、テック、哲学、文化…さまざまな世界の第一線で活躍するチャレンジャーをゲストに迎え、その刺激を浴びながら議論と創発を行い、連携して複数のプロジェクトを立ち上げることを目指す「カーボンニュートラルと創造性ゼミ」での講義と議論の模様を、毎週金曜追加更新の形で配信動画と参加者によるレポート記事としてお届けしていきます。


田村 裕俊

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「カーボンニュートラルと創造性 ~脱炭素による経済発展を自分の仕事にしてみよう~」ゼミ第4回は「哲学から気候変動を語り直す」とした回。
登壇するのはいとうせいこう氏と、そのいとうさんが2021年のベストに挙げた著書『僕たちはどう生きるか』を書いた森田真生氏。
その深い知識と鮮烈な視点を分かりやすく書くことに定評のあるお二方は哲学から語ろうという回にうってつけである。


それでもこの日のゼミ生や聴衆たちは目を丸くし、口を大きく開けた。特に「世間とはつながりすぎずに」「アルーフ」に生きていこうとする森田さんからは他では聞いたこともない話がどんどん出てきた。
 
例えばいとうさんは聞く。
「革命的な気候変動対策を起こすにはどうすればいいんだろうね」と。
森田さんは答える。
「荘子が言うように自分を変えたほうがいいですよ」と。
 
古代中国の思想家、荘子は押し付けにならないよう寓話形式になっているそうだ。
この日の対談もそんな寓話のようだった。このレポート記事には書いている「私(大北栄人というライターです)」がちょいちょい登場するが、それも寓話にならってご容赦いただきたい。


話は文章論から始まった

 
対談は文章論から始まった。気候変動とは一見関係ないが、これが後でちゃんとつながる。
 
いとうさんが「光って見えた」という森田さんの著書『僕たちは~』の文章の特徴とは断章形式にあるという。
一つの話が終わるとまた全く別の話が始まる形だ。一般的に断章形式といっても一つのテーマがあるが、『僕たちは~』は本当に断ち切れているという。

いとうせいこう氏
 
どこに行くのかわからない論理展開が、つながったりつながらなかったり、有機的な状態を生み、次第に根底にある大きな流れが浮かび上がるという。
 

老子が出てきて荘子が出てくる

 
さて本題である気候変動対策について、仕切り直したいとうさんは「天網恢恢疎にして漏らさず」はなぜ恢恢なのだろうか?と森田さんに問う。「だって恢恢だよ?」と。
 
……だってもなにもない。教養のない私は「恢恢」の意味も分からずリスのように止まって見つめていた。
後で調べると「天網は一見ゆるゆるだけど、悪いことをした人は天網にいつも捕まるよ」という意味だった。たしかに。捕まえたいならゆるい必要はない。
 
私と違って当の森田さんは「まさか老子の話になるとは…」と気色ばみ「今日は荘子の話をしたかったんですよ」と嬉々として返す。
ここで教養のない私はさらに頭を抱える。荘子…!?
 
老荘思想としてセットで語られる古代中国の思想家、老子と荘子。その思想はインドから来た仏教と合流して禅となったり、様々な形で日本文化に連綿と続いている。
私たちの文化には古代中国の哲学が息づいているという。
 
哲学の回といってもまさかそっちで来るとは、と冷や汗が流れる。そしてレポートを書くにあたってきっちり困っている。
 

全く違う何かになる「物化」という概念


森田真生氏
 

森田さんは荘子の「物化」という概念を紹介する。
 
例として挙げられるのは荘子が蝶になる夢を見た『胡蝶の夢』の逸話である。蝶になった荘子も、夢から覚めた荘子も同じ人物である。
だけど蝶と荘子には区切りはあり、別物である。このように全く別物に世界ごとダイナミックに変化することが物化という考え方だそうだ。
 
人が蝶になるのもショッキングだが、物化でいうと自分のひじが鶏になる話もあるという。ひじが鶏になったら時を告げましょうねと荘子は言うそうだ。
全く別の何かになってもそれを受け入れようというのは、世界のあらゆる物は同じ一つの物だから他者になっても問題ない、そんな考え(万物斉同)が荘子のベースにあるようだ。
 
森田さんは荘子の天籟の問答も紹介していた。「てんらい??」と、現場ではどういう字かも分からなかったくらいである。
籟は簡単に言うと、風で音が鳴ることのようだ。人が笛を吹くのは人籟。風が吹いて大地の穴から音が鳴るのは地籟と言う。
そして天籟はこの音が鳴っているシステムそのもの。天籟を聴け、天籟を聴くというのはただその鳴ってる音そのものを聴け、背後にある原因を探るな、という問答である。
 
え? 背後禁止? となる。因果関係禁止なのだ。科学全否定とも言える考え方だが、だからこそ森田さんは気候変動対策において荘子を持ち出す。
科学的には、科学的には、と一方向に進んでいく気候変動対策に警鐘を鳴らすためだ。
 


気候変動については哲学の更新が不可避

 
たとえば科学は問題を先送りにするという。
 
6歳になる森田さんの息子さんが「一番最初の人間はいつ生まれたんだろう?」と聞いたことがあったそうだ。西洋の科学の考えだとホモ・サピエンスがいつ生まれて、類人猿が、そもそも宇宙の起源が……と138億年前まで遡ることは可能だが答えは出ない。問題を「138億年先送りにしてるだけ」だと森田さんは言う。
 
これが荘子なら「起源を先送りせずに考える」のだという。風で鳴ってる音をそのまま聴けという荘子だからそうなのだろう。
「自らに本づき自らに根ざす。自分自身が自分の根拠」と荘子は言ってるので森田さんは「…さいしょのにんげんはいまここにいる!」と息子と自身を指して抱き合ったそうだ。
 
科学的に正しく進む気候変動対策には同様の問題の先送りがあるのではないか。ここの「哲学の更新が不可避」だと森田さんは考える。
 
物化の話を聞いていとうさんは言語学者ソシュールの例を出す。「ソシュールは『今日おはようと言って起きるのは昨日お休みと言って寝たからだ』って言うんですね。いくら起源を求めようと思っても無駄だと」
 
ソシュールの言葉をヒントにいとうさんは「あるものがあるものに成り変わっていくという考え方では、ずっと問題が問題としてあり続けるんじゃないか」という。あるものが断ち切れて別の何かが生まれないといけないと。
 
天網が恢恢である理由をいとうさんが考えていたのもそこだという。気候変動対策においては1日や1週間で大きな世論が動く革命的な変化が必要である。そのための隙間のある切断が必要であり、それこそが天網がゆるい理由ではないかと。



物語を否定すること

 
森田さんの文章も断章として断ち切れているからこそ隙間があり、豊かなのだという。断章という断ち切れは「物化」でいう蝶と自分の区切りでもある。
 
森田さんがそのような断章の形式になったのには理由がある。
もともとエコロジカルな書き方の方法を探っていた森田さんはコロナ禍において「今起こってることをいかに今書くか」が「自然に成立した」という。
 
いとうさんは「言語というものはリニアにしか書けない」ものだという。そもそも文章とは連続しているリニアなもの。前を踏まえて次がある。
言ってみれば因果関係にしばられている。荘子のように因果関係を否定することは、物語の否定でもある。
文章はもっと雑多で有機的な何かではないかといとうさんは言っているのだ。
 
いとうさんは小説という形が定まってなかった18世紀ヨーロッパの文学に興味があるそうだ。それは創作だけでなく、論説やスキャンダルなど雑多な何かが混じったものだという。それこそが小説の自由さであり、天網の恢恢さなのだと。
 

多くの声を並べる新しい文体

 
現在、森田さんは断章の『僕たちは~』の先の文体を模索しているところだという。そのヒントは「声」。
 
天籟のように、誰が発しているかは問わない声。それは空海が声字実相、声も字もそれこそが現実そのものだと言ったのとも通じるそうだ。…声を文章で? どういうことだろうか。
 
森田さんが試しているのはたとえば科学的なデータを淡々と並べてみること。それは「カエルの世界と人間の世界を併置させるような」ものだそうだ。私は小学校の百葉箱の日誌みたいなものを思い浮かべるが、「科学的精緻さを突き詰めていって、声を究極的になくしていったときになにができるのか」とまで聞くと全く想像が及ばない。作家であるいとうさんも「すごいこと考えるね…!」と驚いている。


いとうさんは自身の東北モノローグシリーズの方法論に近いものを感じるという。
 
「聞いてテープ起こしをしたものから自分の声を全部消す。相槌も何もない。そうすると相手がモノローグになって語りかけてくる」
「自分を消していくことって本当に気持ちが良いことで、相手だけが立ってくる。そのことが断章になっていたらけっこうなことだよね、人の声ばかりが次々に立ち現れる。一つの主体を設定しないってことだよね」
 
この試みに「それすごいおもしろいですね!」と森田さんも興奮する。でもこうしたことがなぜ『僕たちは~』のエコロジカルな文体の先にあるものなんだろう?
 
森田さんは『僕たちは~』にも出てくる「花も植物も木もごちゃ混ぜに」植える舩橋真俊さんの協生農法を例に出す。自身のラボでは「多様な生き物が同じ空間にいることで、思わぬ連携や相互作用が生まれる」ことがいつも目の前で起こっているそうだ。そんな文章を模索しているのだという。
 
文章はそもそもリニアなものと言ったいとうさんは「書く側が『こういう読まれ方をするだろう』と決めてしまうこと。それ自体がリニアなこと」とも言う。
 
「読者の中で生まれていることが多様であること」を意識し「刺激するべく書く。それは他人の可能性に向けて書くことであり、自分の可能性を追求することとは逆のこと」だと。
 
私なりにイメージしてみる。たとえば映画館で映画を2時間見るのと美術館で2時間美術を見て回るのは同様に文化的である。美術館の方が自分の足を使って主体的とも言えるが、どちらもよさはありそう。どちらもある、どれもある、こと自体が協生農法的でもある。
 
いとうさんは環境問題に対する態度も同じでは?と探る。「自分のために」ではなく「色々なもののために行動しよう」と言わないと「実際の環境問題はクリアにならないのでは?」と。
 
特定の生物のためというより世界の生物全体のために行動する。利己的でなく利他的な考え方は有機的でつながりを生む。そこに自然に生まれる何かがあり、結果的に気候変動対策が前進するのではないかといとうさんは言っているようだ。



西洋の科学合理主義では問題がある

 
現在の気候変動対策はIPCCの専門家たちが主導するものであり、ここに森田さんは警鐘を鳴らす。
 
森田さんによると協生農法の舩橋さんは「風向きを読む」という言い方をするそうで、これはエビデンスが揃う前の段階で、「全体的にまずいんじゃない?」と直感する力だそうだ。科学者はエビデンスに基づいて意思決定をする。だがそこに「風向きを読む」感覚がしばしば欠落してしまう。
 
「『温暖化が人為的な理由によって引き起こされてるのは間違いない』と結論するまでに何十年もかかる」と。たしかに。「みんな知っていたのにね」といとうさん。
 
風向きを読む感覚は専門分化していく学問とは別の方向で鍛えられるものではないかと森田さんは言う。それは「今ざっくりと『アート』とひとくくりにされてしまっている」知性であり、芸術家にも農家の人にも「これはまずいんじゃない?」という知性がある。だけど意思決定はいつもサイエンス側のIPCCだ。
 
ハーバード大学の先生が「カーボンフットプリントを減らそう」と言ったとする。でもその発言には地政学的なフットプリントがあるよと、インドの作家さんが言ったそうだ。カーボンフットプリントで物にかかるCO2が見えるように、発言にも地政学的なフットプリントがある。石油がとれて大国で良い給料があり優秀な人が集う、そんな大学の先生の言葉は影響力がある。
 
たとえば日本人は石にも心があると手を合わせたりするけど、学問は「石には魂がない」という前提を証明していないという。でもそういうことになっている。大勢の科学者がそう言ってないから。「最後は腕っぷしで決まっている」とも言える。
 
「その腕っぷしの構造がこれから変わっちゃう」と森田さんは言う。そもそも今の気候変動対策は腕っぷしの構造を変えたくない人達が描く未来でもあるのだ。


このゼミでは前半は森田さんいとうさんによる対談で進行し、後半はゼミ参加者との質疑応答やディスカッションが繰り広げられた
 

未来像はいつも現状維持

 
いや、森田さんによると未来を語るとき人はしばしば、そもそも現状を変えたくないと感じているのではないかという。
 
森田さんは安部公房の『第四間氷期』という小説を引き合いに出し、未来とは「現在から見たら常に残酷なもの」だと言う。つまり今の気候変動対策が示している未来は、地政学的に腕っぷしの強い、現状を変えたくない人たちによる現状を変えたくない未来像とも言える。
 
ところが実際の未来とはそのようなものではない。たとえば約25億年シアノバクテリアが生まれ、水を分解する光合成によって大量の酸素を生み出すようになったが、それだって当時からすれば「大気汚染」とも言える。そんなことが何度もあって「ギリギリ生命を存続させて」きて現在がある。どこかの時点の「特定の尺度で生態系を最適化するみたいなことをやってしまうと進化が止まってしまう」のではないかと森田さんは言う。
 
あれ? 森田さんは進化をさせようとしているのかもしれない。私達はそんなことを望んでいるのだろうか!? という驚きはありつつも先へ進もう。


物化で自己の感覚を変容させる

 
進化は荘子の物化そのもののようだ。自己が世界ごと全く違う何かに変わる。しかし人間は自己を変えたくない生き物だ。私は明日から蝶になりたくないし、ひじが鶏になってほしくない。
 
森田さんは言う。「地球と人類の問題は究極的には二酸化炭素や気温をどうするかではなく、自己の理解をどのように更新していくかだと思っています。この自分が自分だと思っていたら精神が持たない時代になっていく」と。「環境の破壊や、生物多様性の喪失の時代に恐れるべきことは、今の自己を維持しようとすることによる精神の破壊や自由の剥奪」だと。
 
なんだか怖い話になってきた。「究極的には解脱しないといけない(笑)」と、話は続く。笑っていたが、森田さんが数学を志したきっかけでもある数学者の岡潔は「悟りを常識にしよう」と言っていたそうだ。それにならって「解脱を常識にしないといけないのでは」と今度は真顔である。
 
気候変動について学ぼうと思ってゼミに行ったら「解脱しよう」と言われているのだ。ゼミ生の気持ちをおもんばかってしまうが、この怪しさは90年代後半のカルト教義のアレルギー由来だろうか。いや、気候変動は避けられないからマインドを変えろ、そんな風にも聞こえてしまうからだろう。
 
ただ悲観せずにまずは森田さんのイメージする未来像を垣間見てみよう。


自己が変わることに前向きになる

 
森田さんは言う。「強烈な台風がしょっちゅう来ていて、ウイルスが蔓延していて、灼熱の夏で…」そんな現実はそこまでやってきている。
 
「バス停で女子高生が『台風やばいね』と話していて、人間の会話に人間じゃないものが少しずつ侵入してきている感じ」がするのだという。そしてこの先は「人間じゃないもの」の存在感の割合はどんどん高くなる。ティッピングポイントを超えて南極の氷が溶けつづけるように、日常会話もどこかで人間が中心ではなくなるのではないかと。
 
変容した人間とはどんなものかイメージしてみる。たとえば空調服を絶えず着ているような暑い世界で食料を奪い合うような世界だろうか。人間が中心でないものが日常会話になるとそれはたしかに人間ではない何かだと言えるかもしれない。
 
森田さんはそうした環境危機における自己変容について前向きになろうとしていて、そこには「詩的な揺さぶりに近い何か」があるのではと考える。すごい詩や音楽と出会った時のような「自分のアイデンティティが揺さぶられる戦慄」みたいなものだと言う。
 
そんな環境の変化に「即興的に対応しながら自分が生まれ変わっていくことを楽しむスタンスでいたい」のだと。
 
イモムシは蝶になるし、人以外の生命は解脱できているという。京都で協生農法を試しながらラボを構える森田さんと、ベランダーとして数々の著書があるいとうさんには植物という共通項がある。
 
「ロゼッタになっていたヒメジョオンが気づいたらこんなになってて」と森田さんが言えば、いとうさんは「それまでどこにこの色があったんだよ」と花の色が毎回不思議だという。
 
ならどうやって私たちは解脱し、物化していくのだろうか? そして解脱や物化をして一体何に変わるというのだろうか??


人はサステナブルでない

 
そもそも生命とは物化していくものであり人間も「サステナブルではない」と森田さんは言う。だけど人間は現状のままでいたがる。それは言葉自体が物化を拒んでるのだという。「今の言葉を使っている限り、その僕を維持させたい衝動が反復的に繰り返されちゃうので、その言葉を編み直さないといけない」と。
 
急に「言葉」の話になったので一度整理しよう。
 
環境が変化する。人間でない何かが日常の中心になる。今までの精神では持たないので自己を変容させる。それはすごい詩に出会ったような大きな何かだ。そうすると言葉自体も生まれ変わる……のか??
 
人間は言葉で世界を認識しているから、言葉そのものが世界ということだろうか。ソシュールの話のようだし、空海の声字実相めいてきた。
 
維持しようとする自己を変えるためには言葉を変える。そして言葉を変えるためには東北モノローグのようにたくさんの声を聞いて自分を消していくような作業が必要だと森田さんはいう。自己が変容した先は多声的で協生農法のような世界を生きるということなのだろう。
 
荘子は「物化が起こるのは今を本当に生きる時だ」と言ってるそうだ。ひじが鶏になった…やばい!と思うんじゃなくて、今、鶏として本当に生きるなら時を告げようと。森田さんもコロナ禍で日々を見つめ直した結果、エコロジカルな文章にたどり着いた。
 
「本当に今を生きるっていうのは今をよく見てよく聞くこと」だという。そうすると目の前の生き物であったり他者、声を出している側がこうしてほしいというのをより精緻に感じられるようになり、自らの行為も出てくると森田さんは言う。「つまり他者への解像度を上げるってことですね」といとうさん。
 
やはり物化で変わった先は多声的な世界のようだ。変容した自己のモデルを荘子やブッダは描いていると森田さんは言う。悟りや解脱という言葉にはたしかに自己を捨てるようなイメージがある。でも自己を捨てて何になるのか。考えたこともなかったが、それは荘子の万物斉同のような、多くの他者として生きるということだったのか。


多様性の大切さ

 
ここで話がややこしくなってくるのはこれが気候変動対策の話でもあるので「多くの他者(多様性)」が2つのタイミングで出てくることだ。
 
1.気候変動対策をするのは多くの他者、生物の多様性を守るため、という目的もある。
2.気候が変動してしまい自己を変容させた先が多くの他者、ということでもある。
 
なぜ気候変動対策をするのか。そりゃ自己が後々はそれになってしまうのだから今は少しでも多くの他者を残した方がよい。いや、そもそも多くの生物、多くの他者がいた方がよいことは私達は感覚的に分かっている。だけどここでなぜ必要なのかを再確認してみよう。


環境を変化させるのは悪いことだろうか

 
今の子どもたちは学校や社会で「人類が環境をめちゃめちゃにした」と教えられる可能性がある。それでは自尊心も誇りもない。『僕たちは~』に出てくるそんなくだりにいとうさんは共鳴し、良い側面を探る必要があるという。
 
森田さんは都市人口の増加は今後も避けられないとし、都市の生物多様性の可能性を提唱する。東京タワーのような高くて複雑な構造物はたくさんある。郊外は同じような野菜ばかり育てて、都市部はベランダ菜園で多種多様な生物を育てている。
 
考えてみればそもそも樹木は当時の環境を破壊した環境負荷の大きな植物だったという。木のリグニンを分解できる菌類が現れるまで1億年間プラスチックみたいに誰も分解できないものとして地上に堆積し続けた。
 
酸素という猛毒を広めたシアノバクテリアも現在の人類も当時の環境において「どう考えても最適な振る舞いをしてない」のだと。いや、あまり視点をマクロにしすぎると何やってもいいことになるので一旦置いておこう。
 
いとうさんも都市における植物は十分にあるが分断されている、そこを繋げば虫たち鳥たちが行き来できて「日本の東京でしかありえないような自然」が回復するという。多くの生物にとって生きやすくすることを目指している。
 

人間は77億のセンサーが地球上にあるようなもの

 
また、多様性の必要性は生物だけではなく、人においても同様だ。
 
森田さんによると数学において「特異点の近傍に情報が宿る」とされているらしい。宇宙にとっての特異点が私達一人一人でありそこに膨大な情報があるという。
 
人間は「いくらお金があっても作れないようなセンサーを持っていて」「あらゆる物に興味を持つことができる媒介者」だという。そのような媒介者が77億も世界中、同時に、環境を破壊し新な生態系を作っている。「単一の生き物が全地球上でそれを同時にやるのは初めてなので、それはとてつもなく破壊的なことになる可能性もあれば、地球が今まで体験したことのないレベルで創造的なことになる可能性もある」と森田さんは言う。
 
そのためには一人一人のセンスを生かさなければならない。トップダウンで画一的な行動をするようではいけないという。多くの生物を生かすだけでなく、我々自体も多様でなければならないし、気候変動対策においても重層的な視点を持つ必要があるのだろう。


私たちはどう生きればいいのか

 
他にも話は多岐にわたる。
 
たとえばテクノロジーが生体に入ってきて、人類の身体から物化していくこと。それは感覚的な自己変容と「カップリングして進んでいく」という。
 
自然とはものすごく難しい問題を長い年月をかけてたどり着いた答えであり、野山を駆け巡るのは問題と答えを見て回ること。
 
すべての感覚にニュートラルポジションというものがあり、特異点のようにその近傍には情報がたくさんあること。たとえば人が色を見る時のニュートラルポジションは肌の色だが、人種によって大きく違うように見える肌の色は反射スペクトルだと驚くほど似通っているのだという。
 
数学とは何かを考え抜いて新しい数学を生んだデカルトのように、新しい物はそのこと自体を考え抜くことで生まれるということ。

だが今回は伝わりやすさを重視して、自己をなくして多くの声を並べる書き方とは全く逆の、因果関係にまみれたリニアな形で私が、私が、と紹介しているので、メモ程度に箇条書きにさせてもらった。もちろんこの文章がリニアなものであるように、科学的な気候変動対策も荘子的な気候変動対策もどっちもあっていいのだろう。


ゼミの後半の参加者からの質問には「私たちはどうしたらいいですか?」「どう行動したらいいですか?」という声がいくつかあった。
 
世界中の人々を物化的に自己変容させるには大人よりも、自己と世界がまだできあがってない子どもたちから変わっていく方が近道だろうと言う。森田さんが「義務教育じゃなくて教育義務」と呼ぶ、自分たちで子どもたちに学びの場を提供する試みはそのためでもあるのだろう。
 
環境哲学のティモシー・モートンがシンポジウムをやると、やはり同じように「どのように行動したらよいですか」と参加者が聞くそうだ。モートンはこう答えているという。
 
「私たちは思考をしていた。自分ではない他者についてより精緻に考えた。だからすでに、あなたの体は鋭いメスで切り裂かれたように、見えない血が流れ始めている。本当に思考して本当に感じるとはそういうことだ。行為と同じくらい、あなたはすでに変わり始めている」と。
 
長いレポート記事はここまで。読み終えた皆様はもうすでに変わり始めているそうだ。
 
(了
 

Catalyst
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いとうせいこう
作家・クリエーター

1961年生まれ、東京都出身。1988年に小説「ノーライフ・キング」でデビュー。 1999年、「ボタニカル・ライフ」で第15回講談社エッセイ賞受賞、「想像ラジオ」で第35回野間文芸新人賞受賞。近著に「鼻に挟み撃ち」 『「国境なき医師団」を見に行く』「小説禁止令に賛同する」「今夜、笑の数を数えましょう」「ど忘れ書道」「ガザ、西岸地区、アンマン」「福島モノローグ」などがある。 現在河北新報、文藝にて「東北モノローグ」を連載中。 みうらじゅんとは共作『見仏記』で新たな仏像の鑑賞を発信し、武道館を超満員にするほどの大人気イベント『ザ・スライドショー』をプロデュースする。現在はnoteで「ラジオご歓談!」を配信中。 音楽活動においては日本にヒップホップカルチャーを広く知らしめ、日本語ラップの先駆者の一人である。現在は、ロロロ(クチロロ)、いとうせいこう is the poetで活動。いとうせいこう is the poetファーストアルバム「ITP 1」が発売中。 テレビのレギュラー出演に「ビットワールド」(Eテレ)、「フリースタイルティーチャー」(テレビ朝日)、「トウキョウもっと!2元気計画研究所」(TOKYO MX)、「新テレビ見仏記」(関西テレビ)などがある。

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森田 真生
独立研究者

1985年東京都生まれ。2010年福岡県糸島市に数学道場を設立。東京大学工学部システム創成学科知能社会システムコース卒業・同大学理学部数学科卒業。2012年より、京都に移り、在野で研究活動を行う傍ら、「数学の演奏会」や「大人のための数学講座」などのライブ活動を全国で行っている。2016年、初の単著『数学する身体』で第15回小林秀雄賞を受賞。

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